エストニアの歴史を5分で理解:様々な国に統治された小国の運命

公開日:2019年4月9日  関連分類:

 

バルト三国の一つであるエストニアは現在人口わずか130万程度、国土面積4万5千平方キロ(九州より少し大きい程度)の小さい国です。

現在のエストニアは高度電子化国家として名高く、あの有名なオンライン通話アプリケーション「スカイプ」が創始された国でもあります。

 

 

しかし、エストニアは小国ならではの運命で、歴史的な長年周りの大国に統治されてきた過去があります。

 

歴史の軌跡を辿っていくと隣国フィンランドに多少似たような内容ではあるが、ロシアと西欧の真ん中にあることでフィンランドよりも歴史背景が複雑です。

長い歴史の中でエストニアはデンマーク、ドイツ、ロシア、スウェーデン、ポーランドなどの大国の間に挟まれ、度々戦争に巻き込まれた場所となりました。

 

 

ちなみに「エストニア」という名前の由来はローマ帝国の元老院議員がバルト海東側の人を「アエスティ」と呼ぶことから来たとされています。

 

 

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エストニアを最初に統治したのはデンマーク

エストニアの土地に人類が最初に足を踏み入れたのは氷河期時代終了後の紀元前8500年ごろでしたが、13世紀に北欧十字軍が侵入し、最初に国としてこの土地を占領したのはデンマークとゲルマン人でした。

 

13世紀から16世紀の中世時代にエストニアは南北に別れ、南側はゲルマン人が統治し、北側はデンマーク帝国に属する形になっていました。

 

現在エストニアの首都タリンも13世紀当時にデンマーク領のフィンランド湾に向かう海岸に建設されました。

 

 

スウェーデン、ポーランド時代とロシアとの戦乱

16世紀に入り、ロシアが現在のエストニアに侵攻し、当時のエストニアがスウェーデンとポーランドに援助を求め、スウェーデンとポーランドがロシアを破ったことで、エストニアの北部はスウェーデン領、南部はポーランド領となりました。

なお、一部の領土はデンマーク領のままでした。

※現在の国名で述べていますが、当時の国名は現在の国名と異なります。

 

 

17世紀に入り、スウェーデンとポーランドの間に戦争が勃発し、スウェーデンがエストニア全土を統治することになりました。

 

しかし、この戦争にエストニアが払う犠牲は巨大でした。

当時エストニアの人口はこの戦争によって25~27万人あった人口が11~12万人まで激減しました。

 

17世紀の100年弱の期間で、スウェーデン統治下のエストニアは制度改革や教育興学によって急速に発展し、「Good Old Swedish Time」(スウェーデンの良き古い時代)とまで呼ばれたそうです。

 

 

 

 

18~20世紀ロシア帝国統治時代

18世紀に入り、北欧全体が巻き込まれたスウェーデン帝国とロシア帝国の間に「大北方戦争」(Great Northern War)が勃発。

 

 

エストニアは瞬く間にロシアに侵攻を許し、再び人口が15~17万人程度に激減してしまいました。

ロシア統治期間中にスウェーデンが樹立した制度が崩壊し、農民の生活が地獄に落ちたような状態になっていました。

 

 

19世紀の1850年前後からエストニアが初めて国家としての意識が覚醒し始めました

エストニア語で発行される新聞、エストニア語で上演される演劇、エストニア語で授業が行われる学校の設立などが始められました。

 

 

しかし、20世紀に入り、ロシア帝国は各属国の「ロシア化」を強化し、エストニア国民の自国意識と国家運動は無理やり抑えられていました。

 

それでも、エストニア人は負けず、継続的に活動することで地方政府での影響力が強まる一方でした。

 

 

 

 

1918年エストニア独立宣言

20世紀に入り、エストニア人の政党が初めて合法的に設立され、エストニア国家議会も組織されました。

 

1917年ロシア革命を機に、エストニアは1918年に独立を宣言しました。

しかし、間もなく新生ソ連から侵攻され、エストニア独立戦争が起きました。

 

2年間の戦いを経てエストニアはソ連の侵攻を食い止め、平和条約の締結に辿り着き、無事独立を維持できました。

 

 

第二次世界大戦の勃発とエストニア独立の喪失

1939年第二次世界大戦が勃発し、エストニアはすぐさまに中立を宣言したが、何の実質な意味もありませんでした。

ドイツはすでにソ連と条約を結び、東ヨーロッパを二分し、エストニアはソ連の属地になると決められました。

 

 

エストニアにソ連から厳しい条約が迫られ、エストニアには他の選択肢がなく、自国をソ連の軍事基地となるような条約を飲み込むしかありませんでした。

 

その直後に政府要員、軍事将官、社会の名人など1万人以上がソ連に逮捕され、シベリアに送り込まれ、エストニアは完全にソ連にコントロールされるようになりました。

 

 

ドイツの対ソ連戦争によってエストニアに入り、エストニアはドイツの力によって自国独立に希望を感じたが、すぐに失望してしまいました。

ドイツはエストニアを軍事に利用すること以外何も考えていませんでした。

 

ドイツ敗戦後、エストニアはソ連の属地となり、第二次世界大戦中に25%の自国人口も失ってしまいました。

 

 

 

 

ソ連統治の46年間とエストニアの再独立

ソ連の下に置かれたエストニアの46年間はエストニアにとって暗黒な時代でした。

 

ソ連統治に反対した人々2万人もシベリアに送り込まれました。

 

エストニアをロシア化にするため、大量なロシア人入植を行い、エストニア人の人口割合が94%から60%まで下がり、自分の故郷なのにロシア人のほうが多いという現象まで起きました。

 

 

エストニアは重工業と軍事だけの国として発展され、人々の生活は苦しいままで、独立を維持できた隣国フィンランドとの間に強烈な対比が生まれました。

 

 

1987年ソ連の政治改革によって民間の政治活動が可能となりました。

エストニアでは独立を願う「歌革命」(Singing Revolution)と採鉱による大規模環境破壊に抗議する活動が行われました。

その後、エストニア人を代表する政党も設立されました。

 

 

1989年8月23日にバルト三国から延べ200万人も参加した平和抗議活動「Baltic Way」が行われ、エストニア、ラトビア、リトアニアの3ヶ国を跨ぐ675キロの距離に200万の人々が手を繋ぎ、独立に対する強い意志を国際社会に表しました。

 

 

 

 

1990年エストニア議会が成立し、1991年に77.7%賛成を元に、モスクワクープを機にエストニアは1991年8月20日に再独立を宣言し、長い年月を経てようやく再び自国の独立を遂げました。

 

ソ連はエストニアの独立を認め、1994年にソ連の軍隊は完全にエストニアから撤退しました。

 

エストニアは1992年にすぐさま市場主義へ改革を行い、1991年に国連加入、2004年にEUとNATOに加盟し、高度電子化国家として発展を続けています。

 

 

 

 

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「フィンランドと日本の交流を促進し、人々により幸せな生活をして頂く」という目的を果たすため、キートスショップ現在は「フィンランド雑貨販売」と「ヘルシンキ現地ツアー」の2軸で事業を展開しております。フィンランドの雑貨が好きな方により良い製品、より早く、より良い価格でご提供し、フィンランド雑貨をお客様が手に取る際の喜びを想像しながら事業を運営しております。また、実際にフィンランド・ヘルシンキまで旅をされた方々にはフィンランド文化の核心価値を実際にご体験頂けるヘルシンキ現地ツアーをサービスとしてご提供しております。

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Kiitos」はフィンランド語で「ありがとう」を意味する言葉。『フィンランドには優れたデザインや製品を提供してくださることに、日本の方々には外国の文化を理解して頂くことに感謝し、ショップ経営に取り組んで行きたい』そのような思いから、ショップ名を「キートスショップ」にしました。

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